ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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6月24日(土)
ゲスト:向井理(俳優)

ゲスト×インタビュアー
向井理(俳優)×浜田敬子(ビジネスインサイダー日本版統括編集長)

1982年、神奈川県横浜市生まれ。そのデビューは、24歳と意外にも遅い。デビュー前年にスカウトされるまで、芸能界には興味がなかったという。
明治大学農学部では遺伝子工学を専攻し、研究に明け暮れる日々。国際動物遺伝学会議に論文を提出し、ベストポスターアワードを受賞するなど、研究者としての成果をあげていった向井だが、就職したのは研究職とは無縁の飲食店だった。バーテンダーとしてカウンターに立っていたという向井の、決断の背景にあった思いとは?
芸能界入りのきっかけは、街で声をかけられて撮影されたスナップ写真が雑誌に掲載されたこと。それを見た芸能プロダクションからスカウトされたのだという。興味のなかった俳優の道を選んだ理由とは?
デビュー当初はオーディションにことごとく落ちるなど、仕事のない日々が続く。しかし、持ち前の探求精神と負けん気の強さで次第に頭角を現し、徐々に主要な役に抜てきされていく。そして2010年、NHK連続ドラマ小説「ゲゲゲの女房」で漫画家・水木しげる役を熱演。エランドール賞新人賞を受賞するなど、名実ともに同世代のトップを走る俳優の一人となった。しかし、その裏では「水木しげる」という大きな存在を演じるプレッシャーから、役作りに悩む日々を送っていたのだという。この時の心境を赤裸々に語る。
向井を語るうえではずせないのが、“第二の故郷”カンボジアとの関係。向井は2011年、日本・カンボジア親善大使に任命され、メディアでの発信や両国の交流促進イベントへの参加など、日本とカンボジアの“懸け橋”となってきた。向井とカンボジアの出会いは、ドキュメンタリー番組で、地雷原に畑をつくろうとしている家族の手伝いをしたこと。その体験から大きな衝撃を受け、価値観が変わったという。この経験が、向井の俳優人生に及ぼした影響とは?
6月24日より公開の映画「いつまた、君と ~何日君再来~」は、戦後の混乱期に貧しくも明るく生きる家族の姿を描く物語。向井の実の祖母の手記が原作となっている。俳優という立場だけでなく、企画として携わり、映画化のために奔走した。7年の歳月をかけて実現した念願の作品への思いとは? 向井を突き動かしたものは何だったのか? そして、映画を通し伝えたかったメッセージとは?
インタビュアーは、ビジネスインサイダー日本版統括編集長の浜田敬子。長年編集者として、世界と渡り合ってきた浜田は、俳優・向井理のどのような素顔を引き出していくのか?

6月25日(日)
ゲスト:松本秀樹(鮮魚店「根津松本」主人)

ゲスト×インタビュアー
松本秀樹(鮮魚店「根津松本」主人)×吉永みち子(作家)

日本一の鮮魚店といわれる「根津松本」の主人・松本秀樹。
東京・文京区根津。下町観光の人気エリアのこの街に2007年に開店した「根津松本」は、町の魚屋の常識を覆すような店だ。まず鮮魚店とは思えない、和菓子店を思わせる外観。店内のショーケースには、宝石のように輝く魚たちが並ぶ。中をのぞき込むと、驚かされるのが、その値段。紅ざけ一切れ1800円、ブリの切り身2000円、キンキ6500円…スーパーはもちろん、デパートの高級鮮魚店でも考えられないくらいの値段設定だが、これが飛ぶように売れていく。しかし、松本の店は決して富裕層のみを対象にした、お高くとまった店ではない。むしろその逆だ。銀座の高級すし店や料亭などに行かなければ食べられない極上もののマグロやウニ、タイなどのネタを、関係者が見れば驚くような薄利で店頭に出す。その一方でアジの開きやイワシの目刺しといった大衆魚も同じ扱いで並べられる。コンセプトはただ一つ。松本が選んだ「日本一」の魚だけを売ること。
人気の理由は、いい魚をそろえる目利きだけではない。根津松本では、仕入れた魚をそのまま店頭で売ることはなく、うろこや汚れ、ぬめり、小骨、スジを丁寧に取り、日本一の魚をより引き立たせる加工を施す。さらに干物やカラスミなども自家製、客が望めば魚を焼き、煮つけ、蒸し、フライにまでするという。
「銀座のすし店と遜色ない、あるいはそれを超える魚がリーズナブルに食べられる-」いつしか根津松本は、全国から魚好きたちが訪れる有名店となった。
松本は、1971年、北海道で生まれた。実家は祖父の代から続く鮮魚店。松本の父は「魚屋は芸術」という信念を持ち、品ぞろえや店づくり、また魚に対する考え方が一般的な町の魚屋とはかなり違っていたという。そんな父を尊敬しつつも、当時の松本は父の店を継ぐ気は全くなく、役者を目指し、18歳で上京。約3年間、役者への道を模索するものの展望は開けず、食うに困った松本が、仕事として選んだのが魚屋だった。
町の魚屋で修業を積み、その後、デパートなどに支店を持つ高級鮮魚店に転職。父親譲りの目利きの才能を発揮し、同僚や先輩をごぼう抜きして、あっという間に支店長を任された。だが、勤めて数年経ったある年の暮れ、松本に訃報が届く。「魚屋は芸術」が口癖だった父が他界したのだ。
「父のように第一線の、芸術品のような魚だけを売りたい-」周囲の反対を押し切り、松本は35歳の時、根津に自分の理想とする鮮魚店を開く。しかし「超」がつく一級の魚は、銀座の高級すし店や料理店に直行、街の鮮魚店に卸されることはまずない。松本は何度断られても諦めずに交渉を続け、ついに仕入れルートを手に入れる。だが良い魚は当然原価も高く、町の魚屋で買う客はまずいなかった。
「あんな高い店が根津で続くはずがない。あっという間につぶれる-」周囲の懸念通り、誰も客が来ず、閑古鳥が鳴く日々が続く。経済的に追い詰められながらも、諦めずに続けたのは、松本にはある確信があったからだという。その真意とは?
1982年には約5万3千店あったが、現在は2万店以下と減少の一途をたどっている鮮魚店。それでも一線の魚を売ることにこだわり続け、日本屈指の有名鮮魚店となった根津松本。ここまでこられたのは、魚屋としての意地とプライドがあったからこそ。日本一といわれる最高級の魚を食しながら、日本一の魚屋の成功の秘訣(ひけつ)に迫る。
 過去、雑誌の取材で店を訪れ、松本の仕事に向き合う姿勢に感動したという作家・吉永みち子が、意地とプライドにあふれた“日本一”の魚屋の半生をたどる。