ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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6月10日(土)
ゲスト:十朱幸代(女優)

ゲスト×インタビュアー
十朱幸代(女優)×嶌信彦(ジャーナリスト)

1942年、東京日本橋生まれ。俳優・十朱久雄を父に持ち、その背中を見て育つ。雑誌のモデルからスタートし、テレビ、映画、舞台にも進出、しかし、その女優人生は、常に順風満帆というわけではなかった。
テレビがまだ創成期だった当時、デビュー作「バス通り裏」について十朱は、仕事ではなく遊びの延長のようだった、と振り返る。そして、NHKでデビューができたのは、やはり俳優だった父の影響があったと語る。二枚目ではなく、コミカルで親しみやすい役が多かった父との関係、そして悲しい別れとは?
デビュー作で“かわいらしいお嬢さん”のイメージが定着するも、そのイメージをなかなか払しょくすることができず、来る仕事は似たような脇役ばかり…。焦りと不安を感じた十朱はイメージの脱却を図り、映画「魚影の群れ」で壮絶なベッドシーンに挑戦した。世間を驚かせたこのチャレンジは、その後の女優人生を変えたという。「いまだにあの映画は見られない」という十朱が、鬼才・相米慎二の演出と、俳優・緒形拳の演技、そして意外な人柄について振り返る。
自ら“生涯お一人様”と称する十朱。しかし、入籍はしなかったが、17年にも及ぶ結婚生活を送っていたことがある。相手は同じく役者だった、小坂一也。なぜ、入籍をしなかったのか? そして、なぜ別れを選んでしまったのか? そしてその後も“恋多き女”といわれ、数々の男性とうわさに…。その件について、本人はどう思っているのか? 今回のインタビュアー嶌信彦がぶつける遠慮無い質問に戸惑いながらも出した、十朱の答えとは?
また、十朱は一時期、一年半にわたって表舞台から姿を消していた。実は、長年の役者生活がたたって両足首が変形してしまい、その手術とリハビリに励んでいたのだという。なぜそんなにも時間が掛かってしまったのか? 今だから語れる、壮絶なリハビリ生活とは?
波瀾(はらん)万丈の女優人生…そのどの局面にも、女優という仕事を選んだからこその苦悩が見え隠れする。しかし、その裏には常に、幾多の苦悩を乗り越えてきた十朱の女優魂があった…。
長く日本の芸能界で第一線を走ってきた十朱も、現在74歳。大女優として生きることの苦悩や知られざる素顔を、同世代を生きた嶌が鋭く解明していく!

6月11日(日)
ゲスト:井上順(タレント・俳優)

ゲスト×インタビュアー
井上順(タレント・俳優)×小島慶子(タレント、エッセイスト)

インタビューが行われたのは、井上が20年通う行きつけの魚処「魚ゆう」。新鮮な魚介と家庭的な料理が食べられる店の前で、インタビュアーの小島慶子と待ち合わせた。しかしその前に、井上は独り生まれ育った街・松濤をぶらり散歩。「井上じゅんさんぽ」からのスタートとなった。
1947年、東京・渋谷で3人兄弟の末っ子として生まれる。父は獣医、祖父は馬場を経営しており、日本に競馬を持ち込んだ人物なのだとか…。笑いの絶えない家庭だったというが、井上が小学校入学前に両親が離婚。一時、養子に出された。
中学校に上がるころには、母親と再び暮らすようになる。そのころ、母の縁で知り合ったのが「六本木野獣会」の面々。田辺靖雄を筆頭に、峰岸徹や大原麗子など、芸能やファッション業界を目指す若者たちの集まりだった。ここで交流を深め、井上はジャズ喫茶で歌を披露するようになる。そんな井上に目を止めたのが、当時ザ・スパイターズを率いていた田邊昭知だった。井上に白羽の矢が立った理由は“美形がいなかった”から。16歳でザ・スパイターズに加入し、「ノー・ノー・ボーイ」「なんとなく なんとなく」「あのとき君は若かった」など、多くのヒット曲を飛ばしていった。今回、「夕陽が泣いている」が売れて初めて人気を実感した、という井上が、当時の思いを語る。
1970年、かまやつひろしの脱退を機にグループは解散。その後、井上はソロとして活動することに。「昨日・今日・明日」「お世話になりました」がヒットし、俳優としては視聴率50%を超えたドラマ「ありがとう」に出演、伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」では芳村真理とともに約10年司会を務めた。
そんな井上も、現在70歳。いつまでも元気な印象だが、実は15年ほど前から感音性難聴を患い、補聴器を付けて生活しているという。病気との向き合い方、さらには週刊誌で報道された30歳差の恋人の存在についても、包み隠さず赤裸々に語った。