ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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4月8日(土)
ゲスト:桂歌丸(落語家)

ゲスト×インタビュアー
桂歌丸(落語家)×舘野晴彦(編集者)

1936年、神奈川県横浜生まれ。父が3歳で病死、母は父の死後まもなく実家に戻り、歌丸は遊郭を経営していた祖母タネに育てられた。太平洋戦争により焼け野原になった横浜だったが、商魂たくましい祖母はすぐに遊郭を再建、大いに繁盛する。物不足の時代にあっても、歌丸少年は裕福なお坊ちゃんとして、学校の先生にも一目置かれるほど。本人いわく“金に飽かしたわがままなガキ大将”だったという。
そんな歌丸少年がお笑いに出会ったのは、小学生4年生の時。祖母に連れられて演芸場に足を運ぶうちに、「笑いの少ない時代に、人を笑わせる商売をしたい」と思うようになる。ラジオから流れるNHKの演芸番組にも夢中になり、当初は漫才師になろうかと考えていたが、2人でギャラを分け合う漫才師は「わがままな自分の性分に合わない」と断念し、「はなし家になる!」と宣言をする。それを聞いた祖母は、「中学だけは行ってくれ」と懇願し、2日間も寝込んでしまった。
1951年、中学三年になった歌丸少年に、親戚のおじさんが勧めてくれたのは、五代目古今亭今輔師匠への入門だった。今輔は、はなし家の間では有名な“真面目人間”。その後弟子となり、今児(いまじ)の芸名をもらう。学校の休みになると師匠宅に通い、落語を学ぶ日々が始まった。
中学を卒業すると、翌月4月には上野の鈴本演芸場で初舞台を踏む。見習いを経ずしての前座デビューは、落語家として順調な滑り出しだった。ところが、そんな孫の晴れ姿を見て安心したのか、翌年祖母が他界。17歳にして天涯孤独の身になった歌丸に、この時、師匠・今輔が掛けた言葉とは?
1957年、21歳の時、横浜で近所に住んでいた冨士子さんと結婚。しかし当時、二つ目だった歌丸にはほとんど仕事はなく、たちまち生活苦に。翌年、同じような境遇の二つ目の仲間と結託して協会に直談判することを決意するも、いざ行動に移す段になると、歌丸に協力する者は誰もいなかった。結局、歌丸だけが協会を脱退。以来2年半、化粧品の販売員やメッキ工場など、職を転々としながら、生活費を稼ぐ日々が続いた。
意地を張り、不遇の身となった20代前半の歌丸を、遠くから心配していたのは、親代わりともいえる今輔師匠だった。その後、謝罪に訪れた歌丸に対し今輔師匠は、歌丸の兄弟子だった桂米丸師匠に預ける、という温情裁定を下す。こうして歌丸は、何とかはなし家に戻ることができた。
1966年、歌丸の運命が大きく動き出す。今や国民的人気番組となった「笑点」がスタートし、司会であり笑点の企画者ともいえる立川談志から、声が掛かったのだ。初回から大喜利のレギュラーメンバーの一人に抜てきされた歌丸は、以来、はなし家としての追い風が吹き始めたという。それから半世紀…「笑点」の五代目司会者となった歌丸は、2016年5月に勇退し、日本中のファンの胸を熱くさせた。
80歳となった今も、さまざまな大病と闘いながら、ひとりのはなし家として高座に上がり続けている。落語を極めようとあくなき挑戦を続ける歌丸の、原動力はどこにあるのか?
インタビュアーは、幼い日から「笑点」ファンだった編集者・舘野晴彦。舘野は歌丸と縁の深い、2人の「笑点」出演者について、聞きたいことがあるという。一人は、43歳の若さでこの世を去った、歌丸の“けんか相手”三遊亭小圓遊。早世した盟友・小圓遊に、歌丸はどんな思いを持っているのか? そしてもう一人は、笑点4代目司会者・先代の三遊亭圓楽。2005年に脳梗塞を患い、次の司会者を歌丸に託した圓楽。実は2人の間の“固い約束”が“6代目司会者・春風亭昇太”誕生の理由になっている、と今回歌丸は明かす。歌丸と圓楽との間に結ばれた、その約束とは?
そして番組のもう一つの目玉は、桂歌丸のおはこ、古典落語「つる」のノーカット放映! 達人の境地にある歌丸の高座。快調な語り口が心地よい“歌丸落語”の真髄が詰まった爆笑の一席を、たっぷり味わっていただきたい。

4月9日(日)
ゲスト:梅沢富美男(俳優)

ゲスト×インタビュアー
梅沢富美男(俳優)×宮嶋泰子(テレビ朝日スポーツコメンテーター)

大衆演劇、梅沢劇団の3代目座長として舞台に出演し続けている。近年はコメンテーターとしても活躍し、時には過激すぎる発言でネットが炎上することも…。テレビや映画など、娯楽のあふれる中でも、日本の大衆演劇の伝統を引率し続けている。そんな梅沢の代名詞と呼ばれるのが“女形”。その美しい姿と立ち振る舞いに、多くの観客は酔いしれる。梅沢富美男は、なぜ観客に愛され続けるのか? 
1950年、旅芸人の一座の父と母の間に生まれる。1歳5カ月で舞台デビュー、天才子役と呼ばれ、舞台に立ちながら日本全国を旅してきた。しかし、義務教育を受けるため、劇団や家族と離れて福島に住む母方の祖母のもとへ。そこで、梅沢は極貧生活を強いられる。給食費も払えず、食べるものもままならない日々…。あまりの貧しさに、当時は役者の両親を恨んだこともあったという。
中学3年生の時、父から梅沢劇団を継いでいた兄に誘われ、舞台に立つことに。目玉焼きハンバーグを食べられる、という“餌”につられての出演ではあったが、梅沢が舞台に立った瞬間、観客が沸き立った。この時「1人の人間が100人の人を感動させられる」と体中の血が騒ぎ、その後、役者を志すことに。しかし、観客が沸いたのは別の意味で勘違いだった、と当時を振り返る。その真意とは?
25歳の時、“女形”への挑戦を決意。女性の仕草を研究し続けたという、苦悩の日々を語る。そのしぐさや作法には、日ごろから行っているという知られざる努力があった。
1982年には、小椋佳作詞作曲の「夢芝居」が50万枚を売り上げる大ヒットに。しかし、当時梅沢は歌をうたいたくなかったという。今だから語れる「夢芝居」の誕生に隠された、物語とは? 
1990年に結婚し、2人の娘を授かった梅沢。娘のために“キャラ弁”を作るというほどの溺愛ぶりだ。しかし、娘からは世間に梅沢富美男の娘だと知られた時に、周りから男性がいなくなる、と怒られるという。プライベートについて、さらに梅沢流“浮気のマナー”(?)についても赤裸々に語る!
2012年、梅沢劇団の3代目座長に就任。現在40名の団員、スタッフとともに舞台に出演し続けている。梅沢劇団の看板を背負う責任とは? さらに“夢のある舞台を観客は見にきている”という梅沢が、大衆演劇の今後についても思いを語り尽くす!