ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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4月1日(土)
ゲスト:小室哲哉(音楽プロデューサー)

ゲスト×インタビュアー
小室哲哉(音楽プロデューサー)×春風亭小朝(落語家)

インタビューの場所は、都内のスタジオ。小室がいつも新たな音楽作りに取り組んでいるというこの場所で、落語家・春風亭小朝がインタビューに挑む。
小朝からの最初の質問は、今、一世を風靡(ふうび)している「ピコ太郎」について。1990年代、“ダンス”と“レイブ”という新たなジャンルを確立し、音楽界を席巻した小室。その解答から、ヒット曲を作り出す戦略やこだわりが見えてくる…。
1984年に宇都宮隆、木根尚登とともに、3人組ユニット“TMネットワーク”としてデビュー。その年はちょうど、YMO(イエローマジックオーケストラ)が解散した翌年。3人組のユニットは、いつの時代にも需要がある…YMOが抜けた後の隙間を狙った小室の読みは見事的中。デビュー当時から、小室は“売れるための戦略”にこだわり続けていたという。
1992年、綿密なリサーチの末に目を付けたのが“ダンス”と“カラオケ”。そのマーケットにチャンスを感じた小室はTRFを始動。これが“小室ファミリー”の快進撃の原点となった。当時の心境を、小室はこう語る。「週刊コミックの連載を、4本から10本ぐらい持っている感じ…」。さらに、「締め切りに間に合わなかったらどうしよう…」というプレッシャーの中で、小室が曲を生み出し続けることができた“ある方法”とは?
1996年ごろ、“小室ブーム”は絶頂期を迎える。しかし、4日に1曲を仕上げるという日々の中で、「音楽を書くことが楽しくてたまらなかった」というかつての気持ちに変化が現れた。このころから、「周りの反応が怖くて、笑うことができなくなった」という小室。周囲の声を気にし過ぎていたという、当時の苦悩を赤裸々に語る。
現在、小室の音楽への向き合い方は変わりつつある。そのきっかけとなったひとつは、NHKの“のど自慢”。自分の歌をみんなに披露したいという一般の人々からは、シンプルな音楽への愛情を感じるという。もうひとつは、海外の一流ピアニスト、ファジル・サイの演奏法。心打たれたというその演奏から、小室が感じ取ったメッセージとは? そして、今後、小室が目指す音楽とは…?
また、小朝からの“天才”と聞いて思い浮かべる人は? という質問に対して、小室が名前を挙げたのは2人のアーティスト。その人物とは? そして小室が感じる、2人との意外な共通点とは? 
インタビューのラストには、「墓標に彫りたい言葉」を語ってくれた小室。さまざまな心の内をさらけ出したインタビューで、誰も知らない新たな小室哲哉が垣間見えた。

4月2日(日)
ゲスト:山本晋也(映画監督)

ゲスト×インタビュアー
山本晋也(映画監督)×小島慶子(タレント、エッセイスト)

1939年、東京生まれの山本晋也にとって、最も古い記憶は1945年3月10日の東京大空襲。足立区の疎開先で見た空は、町を焼き尽くす炎で赤く染まっていたという。終戦の翌年、新制小学校に入学。町にはこれまで見たことがないアメリカ文化が流れ込み、中でも駐留米軍のために上映されていた映画に強い憧れを抱いた。早稲田中学・高校では映画部の部長を務め、まさに映画漬けの日々。
1958年、日本大学芸術学部演劇学科に進学した山本は、応援団に入部。一方で映画やテレビの撮影現場でアルバイトを始め、助監督として経験を積んでいく。1964年の東京オリンピックでは、市川崑監督がメガホンをとった記録映画に撮影助手として参加。この時、自らファインダーをのぞいて撮影した映像が、本編にも使用されているという。
当時、日本映画界は大手5社の集客力が低下し、逆に低予算で製作可能なピンク映画や独立プロによる映画が躍進していた。その時流に乗り、山本は成人映画「狂い咲き」を監督。25歳という当時最年少での監督デビューだった。ポルノにコメディーを持ち込んだ独自の作風で、およそ250本もの映画を監督。創意工夫を凝らした映画作りの現場から、のちの日本映画界をけん引する数多くの監督たちが巣立った。映画「おくりびと」でアカデミー賞外国語映画賞を受賞した滝田洋二郎監督も、山本組で助監督を務めたひとり。“体で覚えた映画づくり”が今の自分を支えている、と滝田監督も当時を振り返る。
山本の奇才ぶりが存分に発揮されたのが、初の一般映画となった「下落合焼き鳥ムービー」(1979年公開)。企画・脚本は漫画家の赤塚不二夫を中心とした「面白グループ」が担当した。出演は、所ジョージ、坂崎幸之助、タモリ、柄本明、佐藤B作、宇崎竜童など、後にメジャーとなる面々が勢ぞろいした。
1981年4月からは、深夜番組「トゥナイト」に出演。さらに「トゥナイト2」を含めた21年間、レポーターとして社会現象や性風俗と真正面から向き合い、人間の計り知れない欲望に目を向けてきた。その後出演した、お昼の情報番組「ワイド!スクランブル」ではコメンテーターのみならず、現場に足を運ぶ取材スタイルを貫き通した。
そんな山本の現在の目標は、2020年に、81歳で人生2度目の東京オリンピックを取材すること。いつまでも尽きない山本の好奇心の源に、タレント、エッセイストの小島慶子が鋭く迫る!