ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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2月18日(土)
ゲスト:雪村いづみ(歌手)

ゲスト×インタビュアー
雪村いづみ(歌手)×宮嶋泰子(テレビ朝日スポーツコメンテーター)

1937年、東京・目黒区の裕福な家庭に、3人兄妹の長女として生まれた。父親が急死したことで、一家は経済的に追い詰められ、雪村は知り合いのアメリカ人家庭の家政婦になろうとするが、小さくて痩せていたため「かわいそうでとても雇えない」と採用を断られる。その帰り道、母親の知り合いがやっていたダンスホールに立ち寄ったことが歌手デビューのきっかけとなった。唯一英語で歌える曲「ビコーズ・オブ・ユー」を披露したところ、観客から拍手喝采を浴び、翌日から毎日ステージで歌うことに。
1953年、16歳で発表したデビュー曲「想い出のワルツ」が20万枚の大ヒットを記録。18歳の時には映画「ジャンケン娘」に出演し、美空ひばり、江利チエミとともに、“3人娘”として人気絶頂を迎えた。一方で、母親の事業の失敗などにより、8500万円もの借金を背負う。その返済のため、1960年には1年間におよぶ全米公演「ホリディ・イン・ジャパン」に出演。公演は大成功を収め、雪村は「LIFE」誌の表紙を飾り、“ドルを稼げる初めての日本人歌手”と最大級の賞賛を受けた。
プライベートでは現地の大学生、ジャック・セラー氏と恋に落ち結婚。後に長女を出産。その後も、多くの男性と恋に落ち、全身全霊をかけて愛と歌に生きてきた。
今年デビュー65年目。今回は、番組のためにその歌声を特別に披露! その伸びやかであでやかな声は、3月で80歳になるとは思えないほどの美しさ。さらに、今は健康づくりのために毎日散歩を欠かさず、スタイルは全盛期のままだという。歌声にもますます磨きがかかる雪村いづみの“恋深き”ドラマティックな人生とは? 往年の名曲とともに、その激動の半生をたどる!

2月19日(日)
ゲスト:夏木マリ(歌手・俳優・演出家)

ゲスト×インタビュアー
夏木マリ(歌手・俳優・演出家)×舘野晴彦(編集者)

今や“格好いい女”の代名詞ともなっている夏木だが、意外にもデビューは清純派アイドルだった。当時は、まだ日本の芸能界が未成熟だった時代。キャバレー回りをさせられ、危険な目に遭ったこともあったという。
アイドル路線に見切りをつけ再出発した夏木は、1973年、デビュー曲「絹の靴下」がヒットし、一躍スターに。妖艶な振り付け、胸元の開いた衣装、男を誘うようなフィンガーアクションで世の男性陣をとりこにする。しかし、その裏では、テレビで歌った後すぐに地方へ移動し、キャバレーでの営業という超多忙生活を強いられていた。「金回りだけは良かった」と語るが、同時に忘れたい過去と振り返る。「家に帰るのは下着を取りに行く時くらい」というハードスケジュールの中、体調不良となり3カ月の入院生活を余儀なくされた。退院し現場復帰した時には、すでにもとの居場所はなく、残っていたのは地方営業だけだった…。
そんな不遇の時代に、夏木に光が当たったのは、「東京にいられる」という理由で受けた日劇ダンスホールでの仕事だった。周囲はトップレスで踊るダンサーばかり。そんな環境下で起きた、夏木の運命を変えた出来事とは?
その後、五社英雄監督作品「鬼龍院花子の生涯」で映画の世界に踏み込むことになった夏木。しかし、演技は手探り状態…さらに仲代達也や岩下志麻といったそうそうたるメンツに囲まれて緊張する夏木に、五社監督がある言葉を掛けてくれたという。今も忘れられない、その一言とは?
プライベートでは、2011年に日本パーカッション界の重鎮・斉藤ノヴ氏と入籍。しかし、以前は「パートナーはいるが籍は入れない」と発言し、そのスタイルは“フランス婚”と呼ばれ世間の注目を浴びた。なぜ、しないはずだった入籍をすることになったのか? そこには、どのような心境の変化があったのか?
現在、3月に東京・京都・パリで行われる舞台「印象派」に向け、稽古の真っ最中。自ら演出も手掛ける一人舞台は、20年以上も打ち込んできたライフワークだ。また、海外の子どもたちへの支援活動「ワン・オブ・ラブ・プロジェクト」にも精力的に取り組んでいる。歌手、俳優、声優といった本業も順調にこなし、3月公開のディズニー映画では主人公の祖母役を務める。多分野で活躍する夏木のパワーの源は、一体どこにあるのか?
激動の昭和芸能界を生き抜き、自分らしく生きられるようになるまでに、夏木はどのような選択をし、どのような出会いを経験したのか? 多くの年齢層から支持を得ている夏木マリの素顔が、今明かされる!