ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

  • トップページ
  • バックナンバー
  • contents4

バックナンバー

1月28日(土)
ゲスト:荻田泰永(北極冒険家)

ゲスト×インタビュアー
荻田泰永(北極冒険家)×宮嶋泰子(テレビ朝日スポーツコメンテーター)

日本で唯一の北極冒険家・荻田泰永。2000年から、カナダ北極圏やグリーンランドを舞台に、徒歩を中心とした冒険を行なっている。2016年までに14回の北極行きを経験し、9000km以上を旅してきた。
荻田が北極を意識したのは、21歳の時。無益な毎日に嫌気がさし、大学を3年で中退。言葉にできないほどの焦燥感を抱えていたとき、テレビである冒険家を目にする。世界で始めて北極海の単独徒歩横断に成功した大場満郎氏。その冒険を語る姿は、自分の力で何かをつかみ取る体験に飢えていた荻田にとってまぶしく見えた。
翌年の2000年、荻田は大場が企画した北極の旅「北磁極をめざす冒険ウォーク2000」に参加。カナダ北極圏レゾリュートから北磁極への700km徒歩行に挑み、35日をかけて踏破した。
2001年からは単独で北極圏を訪れ、冒険家としての人生をスタート。中でも荻田を有名にしたのは「無補給・単独・徒歩」により、北極点を目指す挑戦だ。成功すれば世界で3人目、日本人初となる偉業だ。最大50日間をかけて約800kmを進む計画。無補給のため、食料や燃料を積んだソリの重さは100キロを超えた。時には氷点下50度の寒さが襲い、肉食のホッキョクグマに遭遇することも。さらに、近年、北極海を覆う氷は薄くなり、割れ目に転落する危険も増えている。これまで2度挑戦したが、途中撤退を余儀なくされた。日本人初の偉業を目指して、今後も挑戦を続けていくと語る。
2016年には、北極圏の無人地帯1000kmを単独で歩行。番組では、荻田自ら撮影したその冒険の様子をたっぷりと伝える。
荻田はこの過酷な挑戦に、なぜ自ら身を投じたのか? 北極点の先に、荻田が見ている景色とは? 北極冒険家・荻田泰永の挑戦に、テレビ朝日スポーツコメンテーターの宮嶋泰子が迫る!

1月29日(日)
ゲスト:紺野美沙子(女優)

ゲスト×インタビュアー
紺野美沙子(女優)×石原正康(編集者)

小学校の時、所属していた演劇部が出場した県のコンクールで「安寿と厨子王」を演じ、達成感に包まれたことが、女優を夢見るきっかけとなる。その後、慶応義塾女子高校に進学。写真撮影が趣味の叔父が紺野の写真を雑誌に投稿したことがきっかけとなり、ユニチカのマスコットガールに選ばれ、芸能界へ。20歳の時、NHK連続テレビ小説「虹を織る」でヒロインデビュー。“清純派”“知的で清楚なお嬢様”というイメージが定着し、日本中に知られる存在となった。
1987年には映画「姉妹坂」で日本アカデミー賞助演女優賞を受賞。翌1988年には、NHK大河ドラマ「武田信玄」に信玄の正室・三条の方の役で出演、平均視聴率は39.2%を記録した。
名実ともにテレビや映画に欠かすことのできない女優に成長した紺野だが、その裏では多くの不安を抱えていたという。その当時、求められていたのは個性派の女優。自分のような真面目で何の芸もない女優が、この先やっていけるのか…。世間やメディアが作り上げた自分と、本当の自分のギャップにもがき苦しんでいたという。
そんな紺野を救ったのは、本や音楽、芝居の中で用いられる“言葉”だった。さらに、30歳目前で書いた自伝も、不安から抜け出すきっかけの一つとなった。そして31歳の時に結婚。1児をもうけ、仕事と家庭の2つの世界で女優・妻・母親として充実した時期を送る。
38歳の時には、国連開発計画の親善大使に就任。海外視察に出向いた際には、励ます立場にも関わらず、貧困や病気に苦しむ人々から温かい言葉をかけられたという。“言葉”に支えられ頑張れた自分が、今度は“言葉”で役に立ちたい…そう思い立ち、50歳の時に始めたのが朗読だった。音楽と映像を交えながら朗読を行う独特のやり方。始めた当初は赤字になることもあったが、今では紺野のライフワークとなっている。紺野はなぜ朗読を続けるのか? その熱い思いを赤裸々に語る。
インタビューの場所は、東京・池袋にある東京天狼院。店主こだわりの本が並ぶ書店の中には1年を通してこたつが常設され、リラックスして本を選ぶことができる。堅苦しい話は苦手、という紺野のリクエストで選ばれたこの場所で、編集者・石原正康は彼女のどのような素顔をあぶり出していくのか?