ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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11月5日(土)ゲスト:野宮真貴 (シンガー)

シンガー、野宮真貴。
1960年、北海道生まれ。父親の仕事の関係で引っ越しが多く、幼少のころは体が小さく内気で人見知りの性格だった。そんな彼女の楽しみは、洋裁をしていた母親が作ってくれたおしゃれな洋服を着て、家の床の間で歌って踊ること。「あたしが歌手になったらお母さんの洋服を着て歌う」と、スポットライトに当たるスターを夢見ていた。おしゃれが大好きだった野宮は、ファッションリーダー的な存在となり、周りの子がその服装や髪形をまねするように。そのことが自信となり、内気な性格は徐々に変わっていったという。
中学に入るころには、父親が買ってきた、カーペンターズやセルジオ・メンデスといった洋楽のレコードを聞いては、歌詞をカタカナにおこし歌っていた。高校時代にはバンド「KISS」にはまり、ロック少女に。本格的に歌手になりたいと思ったのもこのころで、高校卒業後は東京の英語の専門学校に進学し、女の子だけ5人でバンドを結成、プロデビューを目指すが、そこで野宮は岐路に立たされる。その大きな決断とは?
その後プロデビューするも、CMソングやバックコーラスばかりでなかなか芽の出ない日々が続く。そんな野宮の運命を、当時“ピチカート・ファイヴ”で活動していた小西康陽が、大きく変えた。野宮が三代目のボーカリストにとして加入した“ピチカート・ファイヴ”は、いわゆる「渋谷系」と呼ばれる音楽の先駆者で、世界中にファンが多く、その高い音楽性やビジュアルから現在の「クール・ジャパン」の象徴的な存在として親しまれてきた。小西の演出と、それに応えた野宮、双方の努力によって知名度は広がり、次々とヒット作をリリースしていく。ワールドツアー中に結婚、出産と多忙すぎる日々を送る野宮だったが、そんな時に突然、“ピチカート・ファイヴ”解散の話が…。
その後、ソロで活動し、クレイジーケンバンドの横山剣や鈴木雅之といった、さまざまなアーティストとコラボレーションし、歌の世界観を広げてきた。同時に、「渋谷系」のルーツとなっている楽曲を、多くの方に知ってもらう“渋谷スタンダート化計画”も進めている。
先日行われたリオデジャネイロパラリンピックの閉会式では、“ピチカート・ファイヴ”時代の代表曲のひとつ「東京は夜の七時」が編曲され、使用された。野宮本人はそのことを知らされておらず、大変驚いたと同時にうれしかったという。
また、音楽活動の他にも自身が主演する舞台ライブの衣装プランや、人気コスメブランドから口紅のプロデュース、そしてエッセイ「赤い口紅があればいい」の出版など多方面で活躍する。
今回のインタビューの場所は、恵比寿にあるブティック「MASSE MENSCH」(マッセメンシュ)。このブランドのデザイナーは“ピチカート・ファイヴ”の衣装を手がけたことがきっかけで野宮と知り合い、今では公私ともに付き合いがあるのだという。お気に入りの店でのインタビューに、真っ赤な口紅をつけて登場する野宮…永遠のおしゃれアイコンとして生き続ける、野宮真貴の人生が明らかに!

11月6日(日)ゲスト:矢野浩二 (俳優)

今、中国で最も有名な日本人俳優・矢野浩二、46歳。
1970年、大阪生まれ。俳優になろうと思ったのは、二十歳のころ。バーでアルバイトをしていた矢野は、常連客から言われたささいな一言で俳優になることを決意する。
その後、俳優を志し、単身上京。養成所に入り、日夜、演劇のレッスンに励むが、来る仕事はせりふが一切ない、通行人など、いわゆるエキストラの役ばかり。“ちゃんとした演技をしたい”そう思った矢野は、ふとテレビに映った人物の弟子になろうと決意する。それは、“青春の巨匠”と呼ばれ大人気だった当時俳優の森田健作だった。決断したら猪突(ちょとつ)猛進、矢野は森田に会うため、驚きの行動に出る。その行動とは?
二十歳の矢野は、森田の付き人兼運転手になり、芸の道を学ぶ。ところが、付き人生活が2年になろうとした時、師匠・森田健作が突然の出馬宣言、そして見事に当選を果たす。矢野は俳優の付き人から、議員の私設秘書に。そしてこの生活が、なんと8年も続いた。
矢野の真っ直ぐな信念が実を結んだのは、30歳の時。マネジャーから「中国のドラマに出ないか?」と声が掛かる。そして2000年、ドラマ「永遠の恋人」で中国デビュー。演じたのは、北京に滞在する日本人留学生。いきなりの準主役だった。3カ月に及んだ北京での撮影は、驚きの連続だったという。
2001年、31歳の時、矢野は、活動の場を中国・北京に移す。慣れない土地で語学学校に通いながら、オーディションを受け続ける日々が続き、1年経ったころ、ようやくドラマの出演が決まる。日本との戦争を描いた抗日ドラマ「記憶の証明」だ。中国では、抗日ドラマが年間300本も製作され、ゴールデンタイムで放送されるというほど、人気があるジャンル。矢野が演じた冷酷な日本軍人は、視聴者の心を揺さぶり、矢野の名を中国全土に知らしめた。以来、オファーが大量に舞い込むが、どれも冷酷な日本軍人役ばかり。いつしか「日本軍人役者」と呼ばれ、俳優としての葛藤を抱き始める。そんな苦しみから救ってくれたのは、ある中国人監督の言葉だった。その一言とは?
日本軍人以外の役でも数々のドラマに出演し、俳優としての幅も広げていった矢野。2008年には、バラエティー番組の司会にも挑戦。冷酷な日本軍人役とのギャップがうけ、一躍トップスターに! ところが、人気絶頂時に起きた尖閣諸島問題により、なんと全ての仕事が白紙に…。その時の心境とは? そしてその危機をどのように乗り越えたのか? 
2011年には、中国で活躍した功績が認められ、日本人で初めてとなる最優秀外国人俳優賞を受賞。また日本でも昨年、日中の相互理解促進に貢献したと称えられ、外務大臣表彰を受賞した。「中国で人気の男性タレントランキング」では、福山雅治、木村拓哉を抑え、2年連続(2013、2014年)堂々1位に輝き、矢野が登録している中国版ツイッターには、なんと151万人のフォロワーがいる。今年から日本での活動も始め、数々のドラマに出演してきた。そんな矢野が思い抱く、俳優としての今後の展望とは?
インタビューの舞台は、東京・小岩にある喫茶店「モナリザ」。矢野が俳優になることを夢見て、大阪から上京した時にウェーターをしていた思い出の場所だ。矢野と同じ異国の地で勝負する、インタビュアー・映画監督のヤン ヨンヒがその知られざる素顔をあぶりだしていく。