ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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4月16日(土) ゲスト:前川清 (歌手)

歌手・前川清。
長崎県佐世保市、米軍基地のすぐ近くで生まれ育った前川の音楽の原体験は、外国人が出入りするバーから聞こえてくる洋楽だった。
高校を中退後、生計を立てるために苦心していた前川がたどり着いたのは、バンドのボーカルとしての道。歌を歌いたい、ステージに立ちたい、という思いより、食べていくことに精一杯だったと振り返る。
当時は、歌手を目指していなかったという前川だが、ある日「内山田洋とクール・ファイブ」のメンバーから声を掛けられたことが、人生の大きな転機となった。メインボーカルとしてクール・ファイブに迎えられた前川は、持ち前の美声で、デビュー曲「長崎は今日も雨だった」をヒットに導いた。さらに、「逢わずに愛して」「噂の女」など次々とヒット曲を生み出す中、藤圭子と電撃結婚。歌謡界トップ歌手同士の結婚に、世間は沸いた。しかし、結婚生活は長くは続かず、わずか1年後に離婚。今は亡き藤圭子…前川は一体どのような思いを寄せていたのか? 前川が知る本当の藤圭子とは? 今だから語れる真相を赤裸々に明かす。
離婚後、ヒット曲に恵まれなかった前川は、萩本欽一との出会いから新たな道に踏み込んだ。「コント54号」というネーミングで、萩本欽一とコンビを組み、お笑い番組に出演することになったのだ。直立不動で一心に歌っていた“歌”とは正反対の“お笑い”、そのギャップに戸惑いはあったものの、お茶の間での人気は急上昇。さらに、歌でも「そして、神戸」「東京砂漠」などのヒット曲が飛び出し、仕事は至って順調に進んだ。
しかしそのころ、前川はある不安を抱えていた。このままクール・ファイブとして歌い続けていていいのだろうか…。平和な日常への不安を覚えた前川は、新たな表現方法を探すため、ソロ活動を決意する。そのきっかけとなったのは坂本龍一作曲、糸井重里作詞による「雪列車」だった。今までになかった歌との出会いに、手ごたえを感じた前川は、その後も数々の出会いに支えられ、歌手の道を歩んできた。そして、2006年には「前川清&クール・ファイブ」として活動を再開。古来のファンから温かく迎えられている。
現在は、九州地方で地元密着型番組のメインキャスターを担当する前川。高視聴率を取るばかりか、年配の方から小さな子どもまで、よく声を掛けられるようになったと語る。そんな前川の人気の秘密とは? 人を引き付ける前川の魅力とは一体何なのか? インタビュアーの、テレビ朝日スポーツコメンテーター・宮嶋泰子が、その答えを探っていく!

4月17日(日) ゲスト:渡辺真知子 (歌手)

歌手・渡辺真知子。
1956年神奈川県横須賀市生まれ。公務員の父は田端義男の大ファンで、6歳年上の兄はギターを弾くなど、音楽大好き家族の中で育った。幼稚園の頃から、座布団を重ね、ステージ代わりに人前で歌を歌っていたという。幼稚園ではオルガン、小学校からはピアノを習い始め、高校生の時に友達と初めて作曲。この時「曲って以外と簡単にできるんだ」と実感し、以来作曲をするようになった。
大学生の時に出場した「ポプコン(ポピュラーソングコンテスト)」で特別賞を受賞。以来、ポプコンの常連となる。その時渡辺は、審査員を務めていたユーミンこと、松任谷由実から忘れられない言葉を掛けられたという。その一言とは?
21歳で自ら作った「迷い道」でデビュー。80万枚を売り上げ、一躍トップスターに躍り出た。「迷い道」作曲の意外なエピソード、さらに、同郷でもある山口百恵との交流秘話も明かす。
「かもめが翔んだ日」では新人賞を獲得。当時は女性のシンガーソングライターは珍しく“時代の寵児(ちょうじ)”ともてはやされた。しかし突如、渡辺は壁にぶち当たる。デビューから8年、バンドブームのあおりを受け、人気が急落したのだ。屈辱を味わった渡辺に、レコード会社から衝撃の一言が…。さらに、ステージで自らが作ったメロディーを忘れるなど、この時数々の挫折を味わった。そんな苦難の日々を、渡辺はどのようにして乗り越えてきたのか?
来年は、デビュー40年を迎える渡辺。今年還暦を迎えるも声量が衰えない歌声は、どのように培われてきたのか? ますます精力的に活動するその原動力とは? 
さらに、今回はピアノ伴奏だけで、往年のヒット曲も披露! 渡辺真知子の魅力がたっぷり詰まった、充実の1時間!