ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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2月14日(土)ゲスト:八代亜紀

歌手・八代亜紀。22歳で発表した「なみだ恋」は120万枚を売り上げる大ヒット、紅白歌合戦にも初出場した。順風満帆に見えるが、歌手を目指し熊本から上京してから実に7年もの月日がたっていた。東京で味わった不遇の時代…、知られざる辛いエピソードとは?そして、それでも前を向けたのは、見守ってくれた父・敬光さんがいたからだという。天真爛漫、前向きな性格で誰からも愛される人柄…、そんな八代亜紀を作り上げた原点を探る。

演歌の女王として芸能界のひのき舞台を歩む八代には、昭和の大スター達と数限りない逸話がある。高倉健が歌謡ショーを行い、八代がその前座を務めたこともあったという。歌が苦手だった高倉健は、歌い終わると「勉強させてもらいました」と上体を90度曲げて新人の八代に向かってお辞儀した。その姿勢から学んだこととは?

時を超え、時代を超えて歌い継がれるであろう名曲「舟唄」。日本人の心を深く揺さぶるその詞とメロディ。作詞をした阿久悠は八代に向かい、こう言ったという。「大人の歌が迷子になっている。王道に八代君が戻してよ」。

近年はマネージャーである夫と二人三脚で、活動の幅を広げている。 趣味だった絵を本格的に描き始めた。世界最古の公募展「ル・サロン」に5年連続入選し、永久会員に。 また、少女の頃にあこがれたジャズを歌い、新境地を開拓している。スタンダードナンバーを歌ったアルバム「夜のアルバム」は、2013年のジャズ部門の売り上げナンバー1を獲得。ニューヨークの老舗ジャズクラブ「バードランド」でライブを開催した。

今年で芸能生活45年。ますます活躍を続ける八代亜紀の「裸の履歴書」を明かすのは、月刊「ゲーテ」編集長・舘野晴彦。演歌の女王・八代亜紀の半生に迫る。

2月15日(日)ゲスト:黒柳徹子

女優・黒柳徹子。1953年、NHKの専属女優1号としてテレビの世界に入り、以来多くの人気番組で活躍。さらに、1981年に戦後最大のベストセラーとなった「窓ぎわのトットちゃん」を発表。そして1884年にはアジア人初のユニセフ親善大使に任命され、世界の恵まれない子供たちとも触れ合ってきた。 テレビ創世記から今に至るまで、お茶の間に愛され続けるその強烈な個性は、どんな人生を積み上げて培われてきたのか?大親友の野際陽子が聞きだす、本当の黒柳徹子とは?

いったい黒柳徹子はどんな日常生活を送っているのか?知られざるプライベートに踏み込むために、今回用意したインタビュー場所は、東京中目黒にあるピザ屋「ダイーサ」。その店は、世界一のピザ職人が腕を振るい、黒柳徹子も通う話題のお店。おススメの絶品ピザを頬張りながら、幼少期のことからNHK時代。そして「徹子の部屋」に、窓ぎわのトットちゃん…。そして、残された人生の時間…。野際陽子が遠慮なく切り込んでいく。やがて黒柳徹子の心に刻まれた"人生の言葉"が見えてきた。

「窓ぎわのトットちゃん」に見えてきた黒柳徹子の原点…。 『私はLD(学習障碍児)だったかもしれない…』。小学生のころ授業中の態度が問題になり小学校を退学になった黒柳徹子。転校した先が、「トモエ学園」。その教育方針は子供たちの個性と創造力を伸ばす教育方針だった。「トモエ学園」の小林校長先生の言葉が黒柳の原点になったという。幼い頃のエピソードの裏側に隠された黒柳徹子の本音を野際陽子が炙り出す。

テレビ放送劇団の試験を受け、6000人の中から見事合格した黒柳。新人時代は目立ち過ぎだと注意され、もう帰っていいと収録中に降板させられ悩む毎日だった。そんな黒柳にチャンスが到来。NHKラジオ「ヤン坊ニン坊トン坊」でトン坊役のオーディションに合格。その演出家に「あなたのその個性が欲しいから、直してはいけません」とアドバイスを受け、それが当たり役になった。以来、お茶の間の人気者になっていった黒柳。ともにおなじNHK出身の野際、テレビ創生期を知る二人だからこそ語れるテレビの歴史が明らかに!

1976年に放送が始まった徹子の部屋。この仕事を受けるにあたり黒柳は制作サイドと3つの約束をしていた。①編集をしない ②なるべくスタッフを変えない ③ゲストにスキャンダルを聞かない。その3つの約束はいまも守られている。「徹子の部屋」に19回の出演歴を持つ常連ゲストの野際。気心知れた二人だからこそ語られる、「徹子の部屋」舞台裏を大公開!

さらに、これからの黒柳徹子の有り方に衝撃発言が…「結婚も諦めたわけではない」、そして、「今後、政治記者になりたい」。あくなき好奇心を持つ、誰も知らない黒柳徹子とは?