ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

  • トップページ
  • バックナンバー
  • インタビュアー
  • contents4

バックナンバー

1月1日(木)ゲスト:柳葉敏郎

皆さんの頭に浮かぶ、柳葉敏郎とはどんな人物だろうか。

ジョニーと呼ばれた一世風靡セピアの男らしい姿? 欽ドン!で演じた良川先生のコメディな表情? それとも、踊る大捜査線でみせた、眉間にシワを寄せるシブい演技だろうか?

今回のザ・インタビューでは、 きっと皆さんが知らない柳葉敏郎を目にするはず。

実は柳葉が現在、生活の拠点を置いているのは東京ではなく、 生まれ故郷の秋田県。2006年から家族とともに、自然豊かな大仙市刈和野で暮らしている。

「撮影は、ぜひとも柳葉さんの暮らす街で…」 12月の半ば、インタビュアー・松岡修造は秋田へ向かった。

故郷で暮らし始めた本当の理由、秋田での知られざる日常生活、家族のこと、俳優という肩書きを外した柳葉敏郎の素顔が次々と明らかになっていく。

そして話題は"テニス"のことに。 柳葉は中高の6年間、ソフトテニスに汗を流し、青春時代を送っていた。 そして、現在では指導員の資格を取得し、近隣の子供たちにテニスを教えている。

柳葉敏郎と松岡修造、異なるジャンルで活躍する2人の時間はテニスという共通言語で大いに盛り上る。 もちろん、熱い男2人の気持ちは話だけで収まることはなく、最後はテニスコートへ。 子供たちが汗を流すソフトテニスの練習にお邪魔することに…。

密度100%のザ・インタビューin秋田。 柳葉敏郎の知られざる素顔と予測不能な展開にきっと釘付けになるはずだ。

1月3日(土)ゲスト:後藤高志

西武ホールディングス社長・後藤高志。元々、第一勧業銀行の銀行マンだった後藤。1997年に社会を揺るがした第一勧業銀行総会屋利益供与事件の際、中堅社員にも関わらず仲間とともに、経営陣に立ち向かい、組織改革を断行。当時の後藤たちの様子は、作家・高杉良によって「呪縛〜金融蝕食列島Ⅱ〜」として小説化され、のちに俳優・役所広司の主演によって映画化された。

そして、総会屋事件から8年後の2005年、銀行再編で誕生したみずほコーポレート銀行で副頭取にまで上り詰めていた後藤に転機が訪れる。経営危機に追い込まれていた西武グループに送り込まれたのだ。後に社長に就任する後藤は、前オーナー堤義明氏と対峙し、ワンマン経営であった西武グループの旧体制を革新する。2013年に起きた筆頭株主である外資系ファンド会社サーベラスとの攻防では、「埼玉西武ライオンズ」や赤字路線売却を迫られるも、独自の戦術で見事危機を克服。そして2014年、10年ぶりの東証第一部上場へと導いた。

リスクを顧みず困難にぶつかっていく後藤の生き方の原点には何があるのか?ジャーナリスト・嶌信彦が迫る!

嶌信彦が後藤に会うためにやってきたのは、西武グループの拠点の一つである西武池袋駅の改札。年間6億人以上の乗降客を誇る鉄道会社のターミナル駅で、グループの社長が自ら出迎えた。二人は特急レッドアロー号に乗って本社のある埼玉県所沢市に向かう。道すがら、当然話題は鉄道に…。後藤が通勤電車にもたらした独自の改革が語られる。

本社に到着し幹部応接室で行なわれたインタビュー。話は後藤の名が世に知れ渡るきっかけとなった、第一勧業銀行総会屋利益供与事件から始まる。会社存亡の危機にあたふたするだけの経営陣を見かねて、仲間たちと行なった組織改革。反社会的勢力との関係の断絶に、体を張って立ち向かった逸話などが披露される。

さらに話題は、総会屋事件から8年、みずほコーポレート銀行の頭取の座を目の前にして、経営危機に陥る西武グループへと送り込まれた後藤の、巨大企業グループの再建について。絶大な影響力を持つ西武グループ前オーナー堤義明氏に対して後藤が取った戦略とは?さらに、筆頭株主である外資系ファンドとの攻防を克服し、一度は上場廃止になった企業を見事東証一部上場へと導いた秘策とは?

1月4日(日)ゲスト:瀬古利彦

現在、DeNAランニングクラブ総監督を務める瀬古利彦。マラソン15戦10勝という成績を残し、5000m、1万mの日本最高記録も残している。 インタビュアーはテレビ朝日エグゼクティブアナウンサー、宮嶋泰子。テレビ朝日入社後、初めてスポーツの取材をしたのが瀬古だった。以来、30年の付き合い。瀬古を語った本を出版するほどの宮嶋のインタビューだからこそ、瀬古利彦の知られざる素顔が見えてくる。

1976年に一浪して早稲田大学に入学した際、瀬古は中村清監督と出会う。中村自身も1500m選手として1936年ベルリン五輪へ出場、マラソンへの想いは人一倍であった。中距離からマラソンに種目を変更するよう中村に勧められた瀬古。中村のある行動が瀬古の心を動かしマラソンへの想いを揺ぎ無いものにしたという。その行動と言葉は「神の声だと思った」と瀬古は当時を振り返る。

当時ライバルだった、宗兄弟、イカンガー、中山竹通との思い出。互いに意識し会話する事がなかったというライバルに、勝つために挑んだ練習とは?そして大会中は選手同士での駆け引きも…。その戦略を赤裸々に語る。

日本中から優勝候補とメダルを期待された1980年モスクワ五輪。ソ連のアフガニスタン侵攻の影響により日本は五輪に不参加となり、欠場を余儀なくされた。瀬古は、当時こそ欠場することに納得していたが、年を重ねるにつれ悔しさが出てきたという。その想いとは?

4年越しで挑んだロサンゼルス五輪では14位。五輪に向け練習で外苑を走ると、人々から応援の声がとどいたそうだ。期待に応えるよう練習を続けるが、実は慢性疲労で体調不良だったという。医者から練習を休めと言われても、応援に応えるため練習を休む事が出来なかったという。誰にも相談できず一人苦しみ続けていた当時の思いを明かす。

現役引退後、監督に就任し、五輪金メダルの夢を若手選手に託し指導していく。しかし2012年、瀬古の人生にとって一番の危機を迎える。長年所属していたエスビー食品の陸上部が廃部。瀬古は選手、スタッフを含めた12人を路頭に迷わす事だけは避けようと必死に働き続けたという。 現在はDeNAランニングクラブ総監督として、日本マラソンを再び強くするため、選手の育成に励む瀬古。日本人がマラソンで強くなる為の秘策とは?そして2020年東京五輪は?